日本人らしさ、日本らしさの「いただきます」

我々日本人が食事をする前に、
「いただきます」
と感謝を捧げること
には、色々な姿が存在する。

先ず最初は、
子どもに家庭の躾で
教える食事についての道徳
「いただきます」がある。

それは、世界中には
色々な国があり、貧しい国では
満足に食べることができなくて、
痩せ細っている可哀想な子ども達が
沢山いる。

その子ども達には
気の毒であるが、ちゃんと
食べられることに感謝して、

好き嫌いを言うのは
我が儘なことであり、
「健康に育つ為には、
何でも感謝して食べなさい」
というものがある。

その次には家族のために、

健康と食べることの
喜びを叶えてくれる、

心尽くしの美味しい料理を、
作ってくれることに感謝する
「いただきます」がある。

或はまた、
おもてなしを受けて、
ご馳走を頂くことに対しての
「いただきます」も存在する。

しかし、これらは
みな恵まれた境遇に
関しての感謝であり、

日本人らしさ
を表しているものではない。

それについては、
やはり主食となる日本古来
からのお米について考えてみるべきである。

現代に於いて
日本人の主食というと、
パン派の人もあり必ずしも
皆が米飯とは限らないのであるが、
昔は米の飯が最も貴重な主食であった。

その米の飯も、
古くは米を蒸して
食べるのが普通で
あったと思われる。

それは現代でも、
強飯(コワメシ)またはオコワ
と呼ばれるもので、
特に目出度い晴れの日を
祝う赤飯も、もち米に
小豆を混ぜて蒸して作られている。

因みに、私が生まれ育った
中国地方では、もち米を蒸気で
蒸すことを「ふかす」と言う。

餅をつく時はもち米をふかし、
酒を造る時は粳(うるち)の酒米を
ふかして糀(こうじ)を造るのである。

そして、水を多くして
米を炊いたものには雑炊と粥がある。

雑炊は飯に汁など
を混ぜて煮たもので、

普通は残飯か或は
鍋料理のシメ雑炊の
ように思われているが、

はじめから米に
野菜などを混ぜてつくる
雑炊も存在するのである。

「一合雑炊・二合粥・三合飯(めし)」

という言い草があるように、
雑炊の場合は米の消費量が
少なくて済むので、昔の農民の
日常食には少量の米に、大根や
里芋などの野菜を混ぜていたようである。

従って、銀飯(ぎんめし)と
呼ばれる純粋な白米の御飯は、
祭りなど晴れの日の食事でしか
食べない貴重なものであったと思われる。

「めし」という語も
「召し上がるもの」の
意から出たと言われ、かつての
日本民族にとって、米がいかに
重要視されていたかが窺えるものである。

米或いは米から造る酒は、
神祭りをする上で最も重要な
供え物である。

米や酒は生命の源
と考えられ、同時に
その物に神を観(かん)じていたと
考えられる。

それ故に、米の飯を
握り飯にする時は、三角形や
擬宝珠型につくって神に供えていた。

三角形は古くから
人間の魂の形だと考えられていたのである。

従って、三角形に
つくった握り飯のことを
「オムスビ」と呼ぶことが多いのだ。

オムスビは
「産(むす)霊(び)」であり、
天地万物を産む神霊の意で
「産(むす)霊(び)の神」である。

食べ物について言うなれば、
人間は自然界の食物連鎖の
頂点に君臨しており、米を
はじめその他の穀物や野菜果物・魚介類から
鳥類や動物まで、生物そのものの生命を
「いただきます」であり、そのことに謙虚に
感謝を捧げるものである。

そして食べ物を粗末にするのは、
「もったいない」ことで慎むべきこと
である。

勿体無いことをするのは
「神を畏れないしわざ」であり、
神のご加護(かご)を冒瀆する不敬な
ことなのである。

つまり、この「もったいない」
の心は日本人としての哲学であり、
これが日本人らしさ日本らしさと
呼ぶものであると思われる。

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