「午前0時」に、釈然としないものを感じている。

午前0時で今日が始まった気持ちにはなれない

1日は24時間で、当然ながら時計の針は2周する。 しかし、それぞれどちらも1周の半分は暗い時間帯で、残りの半分が明るい時間帯であるから、なんだか釈然としないものがある。 それは、日付は変わったけれど夜が明けるまでは、未だ今日が始まった気持ちにはなれないからである。

時刻上の午前0時で分ける今日と昨日は、暦の上での季節の変わり目と同じく、実際に明るくならなければ、今日としての実感は湧かないものである。これは感覚的にも生活的にも無理がある。

正午(午の刻)

時刻表示に十二支を当てていた時代には、昼の12時が正午(午の刻)で、午の刻より後だから午後であり、午の刻より前だから午前として、現在でも踏襲して使われている。これは今でも太陽暦と太陽暦とが、特異な分野で併用されているのと同じである。

季節によって差異はあるが、夜が明けて朝だと実感するのは卯の刻(午前6時)辺りで、一日の労働を終える日暮れが酉の刻(午後6時)となり、「カラスと一緒に帰りましょう」となるのである。

日が暮れてからの残りの今日は、人に会えば「こんばんは!」と挨拶をする。暗い夜の間は今日の残りであり、夜が明けて明るくなるので明日である。そして、昨夜のことを「きのうの晩」と呼ぶように、一日の主体を昼間の方に置いて考えるのである。つまり、生活上での実感の方が有意義でしっくり来るのである。

文明は目まぐるしく変化進展して行くが、人間の生活上で培ってきた言葉の文化は、そんなに簡単には変われないのである。