こんばんは、湯豆腐です。
人間の五感は誰もが持っている。 五感の他にあるとされる感覚で第六感と呼ばれるものは、直感とか閃きと表現されているもので、鋭く物事の本質をつかむ心の働きのことである。 では、第六感を超える第七感というものは、存在するものなのか存在しないのか?
先ず、五感について考えてみると、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・五つの感覚には、それぞれの感覚を認識する為には、共通して付加しなければならないものがある。それは、「みる」という言葉で表現されるものである。 視覚は、視力によって目にとめて認識することであるが、「見る」と「観る」の違いがある。 聴覚は、「聞く」と「聴く」の違いがあるが、どんな音がするのか叩いて「みる」。耳を澄まして聞いて「みる」。聴力によって音の具合を認識するのである。 嗅覚は、どんな匂いがするのか嗅いで「みる」。良い匂いと嫌な臭いとで、異なる漢字が存在する。 味覚は、味を「みる」。味見をする、どんな味がするのか試食してためして「みる」。 触覚は、どんな感じがするのか触れて「みる」。これには、固形の物と水のように流動する液状の物と、冷たい空気・爽やかな風のように、手で触るだけでなく身体全体の肌で触れて「みる」ものがある。
では次のような「みる」は、どの感覚に属するのだろうか? 医者が患者の容態を診る。看護師が脈をみる。人をみる目がない。バカをみる。痛い目をみる。留守の間子どもをみてもらう。等々の他にも沢山あるが、読者の方は五感の不思議について、もうお気付きだろう。どの感覚についても「みる」為に付随する行為と共に、「みる」という行為を付加しなければ、それぞれの感覚を確かなものとすることができないのである。
さて、もう一段レベルアップして第七感について考えてみよう。 人間の精神が感じ取る不思議な力として、「霊感」と呼ばれているものがある。これは、人間の霊による感応であるとか、神仏による不思議な感応としているが、私はこの霊感については賛同できないものがある。 それは、自称霊媒師などと名乗る者が現れて、霊魂を自在に支配できるかの如く、テレビ番組などで真しやかに演じて、一時的に視聴率確保に貢献しているが、もってのほかの事である。
霊魂というものに対しては、もっと真摯に敬謙な対応をすべきである。言うなれば心眼をもって拝眉すべき、厳かなものでなければならない。 私は、第七感の存在については、人間が形而上的な観念をもって捉えるところの、神様をみることができるのか。または対極的に、地獄をみた思いがする。という次元のもので、もっと人間的なものに例えると、親子の愛情というものについて、目には見えない愛情というものが、「みる」「見えない」は「存在する」「存在しない」と同義であって、これを心で捉えることが第七感に属すると考える。 そしてこの「第七感」を、人生観・死生観・宗教観という「観」は「みる」に繋がるものであるから、「心上観覚」という命名が相応しいと考えている。
天空の城ユドウフ