「打ち出の小槌」では意味が伝わらないので、「ドラえもんのポケット」と言わなければならない

こんばんは、湯豆腐です。

今の子ども達は鉛筆を削るのに、ナイフ(小刀 こがたな)を使うことができない。 鉛筆だけでなく、小刀そのものを使ったことが無いのだ。勿論のこと、小刀という言葉自体を知らないのも当然のこととなる。 子どもには刃物は持たせない、使わせないのは確かに安全第一主義かも知れないが、その為に、リンゴの皮むきさえもできないことになる。

昔の子どもは、自然に生えている竹を材料にして、小刀を使って水鉄砲や竹トンボを作って遊んだ。その為に怪我をすることもあった。その代わりに、危険を察知する能力を身につけることができたのではないか。どちらが良いとは言い難いことであるが、とにかく今の子ども達は鉛筆削り器しか知らないのだ。

ある日、空になった牛乳パックやプラスチック容器のトレイ等を使って、遊び用具の工作をしたのであるが、ハサミだけでは満足には進まず行き詰まっていた。 そこで子ども達は、「ここに窓が欲しいので、四角い穴を空けて欲しい」とか、「ここに丸い穴を空けて欲しい」と言って来た。これに対して、カッターナイフとハサミを使って注文通りに応えてやると、僕も私もと次々と注文の列ができて、俄かに工作機械の代役にされてしまった。そのうち、「早くやってよ、僕のはまだ?」「私のはいつできるの?」と勝手放題なことを言う。ついに、「先生は、ドラえもんのポケットじゃないっ」と怒ってやると、キャッキャと歓喜の声を挙げて大喜びされた。逆効果だった。

昔だったら、「打ち出の小槌ではない」と表現したであろうことが、今では、「打ち出の小槌」では意味が伝わらないので、「ドラえもんのポケット」と言わなければならないことに、良いのか悪いのか時代の変化に、腑に落ちない気持ちを痛感させられる。