父の日

こんばんは、湯豆腐です。

今日は父というものについてのお話です。

遠い昔の思い出

一年のうちで最も鬱陶しい梅雨の季節であるが、その6月に父の日というものがあるそうな。 それがいつなのかは知らない。知らないけれど、特に何も差し支えは感じたことはない。 だけど、折角父の日があると言うのだから、お節介かも知れないが、世のお父さん達にこの話を贈ります。

遠い遠い昔の、私が子どもだった頃の思い出話です。子どもだった頃の思い出と言えば、10人が10人と言って良い程、誰もが「母の思い出」と言うだろう。 児童と呼ばれる年齢ならば、母親と父親では比較の対象にすらならない、10人が10人と言って良い程、お母さんの方が好きと言うに決まっている。それが児童心理というものかも知れない。

母のお弁当

私が子どもだった頃には、まだ電子レンジというものが存在していなかった。エアコンも普及と言うにはまだまだ程遠い時代だった。 吐く息が白くなる寒い季節に、給食が無い日のお弁当を、母親が朝早くからご飯を炊いて、少しでも暖かいお弁当を食べさせてやろうと、出かける直前に熱々の弁当を作ってくれた。その暖かいお弁当を胸に抱えて、その温もりを母の温もりと感じつつ、寒い中を登校するのであった。 でも、お昼にお弁当を食べる時にはもう冷たくなっていた。それでも、朝お母さんから受け取った時のお弁当は、熱々だったことを思い浮かべて、冷たくなっているのはお母さんが悪いのではない、寒さが悪い奴なのだとお母さんに感謝しながら、冷たいお弁当を食べた記憶がある。

今の子ども達は、生まれた時から電子レンジもあるし、保温型のお弁当箱もある。昔に比べれば恵まれ過ぎる程恵まれている。しかし、恵まれ過ぎているから"過ぎたるは猶及ばざるが如し"で、お母さんという存在の有難さも、薄れてしまうのではないかと思われる。 昔と違って便利な物に囲まれた世の中だから、知らず知らずのうちに便利なことが当たり前で、お父さんやお母さんは、そのついでに存在しているかのように、認識しているのかも知れない。

子どもから見た世界

子どもは自分を中心にして、身の回りのものから認識して行くので、順序としては、食べることと遊ぶことが生活の全てなのだ。 子どもにとって、ご飯を作ってくれるお母さんは、無くてはならない存在なのである。学校から帰ってきたらいつも「お帰りなさ~い。今日の学校はどうだった?」と迎えてくれる。だから、お母さんはいつも家に居てくれると嬉しい。お母さんは家族を喜ばせるために居るのだ。

父の日

これに対し、お父さんは家族を困らせない為に居るのだ。子どもにとっては、自分やお母さんを困らせない為に、働くのがお父さんの役目だと思っている。 もし、家族が不自由な思いをしたり困ったことが起こるのは、それはお父さんがちゃんと役目を果たしていないから、お父さんが悪いのだ。

遠い遠い昔を想い起こして、今になってやっと解ったことがある。子どもにとっては、お父さんの存在観とお母さんの存在観は、初めからその立場がはっきり異なっているのだ。 「父の日」というのは、あっても無いに等しいものであり、父親は、家族を困らせない為の存在に過ぎず、その立場を再認識する日なのである。

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