湯豆腐とお隣さん

こんばんは、湯豆腐です。

今日はわたし湯豆腐と、かつてのお隣さんだった方とのお話です。

幸福な運命

運命というものは存在するものなのか、 それとも存在しないものなのか。

若い男女が、何かの催しなどで出会った後に他の何かで再び出会うと、 これを運命的な出会いと位置づけて、恋愛の方向に発展させていく場合などは、 偶然を運命としてとらえるのであるが、これは幸福な利用と言える。

また、人生の様々な悩み事、とりわけ対人関係の複雑さや、 職務上での己の能力不足で行き詰まった時など、 なかなか良い相談相手にも恵まれず思い余って本屋さんへ行き、 書棚に並ぶ沢山の背表紙を眺め、そこに記された背文字を一つひとつ読み進んで行くなかで、 ふと目に留まった本を購入して読んでみると、 これが自分の悩み事に大きなヒントを与えてくれて、 解決への道を開いてくれることがある。【 読書は薬なり 】と言われる所以であろう。

このような本との出会いから、その本の著者が好きになって次から次へと、 同じ著者の本を買って読むことになるのだが、これも結果的には幸福な部類に属する事なので、 運命的であったとしても然したる問題はない。

残酷な運命

しかし、深刻なのは不幸な出来事の場合である。 思いもよらず不治の病に罹り世の行く末を儚んでいる人や、 不慮の事件や事故で不幸のどん底に苦しんでいる人には、 運命というものが残酷で認めがたいものとなってくる。

そうなって来ると、運命とは何なのか 運命というものが本当に存在するものなのか否か、 突き詰めて考えて見なければならない。

お隣さん

筆者の遠い昔の記憶であるが、私がまだ大学生だった頃、 東京で4畳半の安アパートに住んでいた。そして、隣りの部屋には少し障害を持つ人が住んでいた。

普段その人は、明るくて屈託なく私より幸福そうに暮らしていたが、 ある日、自分の背負っている障害について、何故自分がこんな目に遭わなければならないのか、 自分は何も悪い事はしていないのに、何故自分なのか??。 相談と言うよりも悲痛な叫びをもって、運命というものが何故あるのか、 運命とは何なのか、教えて欲しいと迫られたことがある。

私を選んだ理由は、隣り部屋であることと、私が大学生だからということだった。

お隣さんの部屋にも本が沢山あった。しかも、ニーチェの哲学全集がきっちりと揃っていた。 しかし、お隣さんは読んでみたが全然わからないので、飾ってあるだけだと言うのだった。

運命が何故あるのか

お隣さんの懇請の言葉は真に悲痛に満ちていた。 誰に聞いても、それは運命だからとロをそろえて言うけれど、 誰も運命が何故あるのか答えてくれない。 仕方ないので本を買って読んでみたけど全然意味が分からない。

私の部屋にある本を指差して、貴方なら答えてくれる人だと思うから・・・と。 その時、答えに窮して絞り出した言葉を今でも忘れられず覚えている。

運命とは、人間が考えて考えて 最後の最後に、 どうすることもできなくて、諦めるために辿り着き創り出した言葉であり、 諦めるための考え方=観念だと思う。

お隣さんは、判ったような気がする・・・と言ってくれたので、 私の心の片隅にあった迷惑な話だという感じからも解放された。

読者の方々はどのようにお考えでしょうか。

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